由緒

 宝林寺は、比叡山の東麓坂本に位置しており、延暦寺老僧の住した里坊群の東南にあたる金剛河原の南、藤ノ木にあり、山号は藤木山、台麓山と称することもあった。その寺号も、阿弥陀寺、寶樹庵、妹律院と変遷し、現在は寶林寺と称する。
 当寺の由緒は、天台宗安楽律法流に所属する寺院で、昭和四十六年秋までは、天台宗尼律庵の総本寺の格式を有していた。尼末寺に空心庵(坂本)、松林庵(高畑)、桂樹庵(藤ノ木)、戒光庵(藤ノ木)、観正庵(明良)、制心庵(坂本)、光明庵(岡山市)、慈門庵(仰木)などがあったと、『天台律宗尼寺本末寺名帳』に記されている。

 
 開山は、延暦七【七八八】年に比叡山を開創された伝教大師最澄上人で、その後、元三慈惠大師により比叡山の横川戒心谷の八講堂に創始された阿弥陀寺旧跡の由緒を継承するかたちで、延享四【一七四七】年に、復興許可がくだされた。寶林寺の寺号は、寛延二【一七四五】年六月二十八日に改められたと伝えられている。このような由緒の経緯は、享和三【一八〇三】年五月に住職の知友沙弥尼が編纂した『坂本阿弥陀寺由緒記』によって伝えられている。この様に、伝統寺院であった阿弥陀寺が廃絶し、江戸時代になって比叡山西塔妙観院里坊屋敷となっていた寶樹庵を復興したのが現在の寶林寺である。


 現本堂は、喜見院具薫沙弥(享保十二【一七二七】年寂)が願主となって、寶樹庵主であった惠則沙弥尼(元文三【一七三八】年寂)が、本宗一派尼律庵の総本寺として、長老であった霊空大和尚の許諾により、管領宮天台座主尊祐法親王の宣許を得て復興された。当初は、寶樹庵は安楽律一派の特徴である輪番制度がとりいれられていたが、享保十九【一七三四】年に安楽律院より、了種沙弥尼、必近沙弥尼、躰門沙弥尼、普研沙弥尼が、それぞれ三ヶ月間づつ輪番住持をつとめた。
 内仏間には、本尊の阿弥陀如来座像(木造・厨子)をはじめ、廃庵となった末庵の諸尊が合併奉祀されている。殊に、伝教大師御自作とされる阿弥陀如来座像(木造・厨子)が、『由来縁起』とともに伝えられており、寶林寺の寺宝となっている。


 昭和四十六年秋より住職を勤めた三十六世山本法弘和尚が、平成十五年三月十日に遷化され、現在では男僧の住職寺院となっている。
 歴代住職の墓地は、菩提寺となっている西教寺禅智坊の管轄する西教寺墓地にあり、先亡回向のための過去帳には、安楽律法流の祖師が書き入れられている。
 また、位牌壇には、古くからの歴代住職位牌をはじめ、近年に檀家となった各家先祖位牌が奉祀されている。
 境内は三二二坪あり、山門二坪(惠澄痴空和尚筆扁額)、本堂十坪、庫裏十坪、書院十坪、倉庫三坪があり、石碑に不許葷酒入山門内碑(石造)、法華経塔(石造・文政八年真了沙弥尼建立)、五輪塔(石造・普研沙弥尼供養塔)慧隠塔(石造・法弘和尚供養塔)、地蔵尊(石造・法弘和尚開眼)が奉祀されている。